前作品

位置づけ

次作品

永遠の仏陀

神は法なり、神は教えなり

釈尊

1991/07/07

発刊

出典
くり返し、おまえたちに告げる。
このわが教えは、
単に、おまえたちの心を救うがためにのみ、
説かれているのではない。
この教えを本(もと)として、全宇宙は統べられているのだ。
この教えを実現すべく、
人類の過去・現在・未来があり、
人類なき過去にも、
この教えは厳然としてあり、
人類なき未来にも、
また、あるであろうということを、
私は明言しておく。
このわが説く法は、
人間の出現に先立ち、
人間の消滅におくれて、
なおもあるものである。

教えとは、姿を変えたる神そのものであるということを、
おまえたちは知らなくてはならない。
わが教えを読むは、神を見ると同じなのである。
神を知らんと欲せば、わが教えを見よ。
その教えこそが、姿形なき神の実体なのである。

おまえたちは、空を見上げて、神を見んとするか。
おまえたちは、目を閉じて、神を見んとするか。
おまえたちは、想像のなかで、神を見んとするか。
それとも、
おまえたちは、霊的なる目を開いて、神の姿を見んとするか。
いずれの試みも、虚しく終わるであろう。
そう、真実の神とは、姿形なきものである。
真実の神とは、
この地上を超えた実在世界にある高級霊の姿をとった、
その霊的実在でもない。
その霊的実在を超えたるものが、真実の神であり、
真実の神の姿は、教えに表れているのだ。

よくよく聴くがよい。
手で神をさわらんとし、目で神を見んとし、
その体の大きさに合わせて神を測ろうとする者たちよ。
神とは、
おまえたちの五官によって捉えられるものではない。
おまえたちの想像するようなものではない。
神とは、法であり、
神とは、教えであるのだ。
わが説く、この法こそが、
わが説く、この教えこそが、
神の実体の本質であるのだ。
わが教えを学ぶ時、
おまえたちは神の姿を見たのである。
わが教えを聴く時、
おまえたちは神の声を聴いたのである。
わが教えを理解する時、
おまえたちは神の心を理解したのである。

くり返し、くり返し、言う。
神とは、姿形なきもの。
神とは、人間を超えたるもの。
しかして、霊を超えたるものでもある。
神とは、人間的なる感覚を超越し、
この宇宙を統べるところの、
教えそのものとなっている存在なのだ。

おまえたちは、
その手にしているページの一枚、一枚に、
神の姿を見ているのである。
神とは何であるかを知りたくば、
わが説く教えを、深く深く、理解せんとせよ。
そこに、
神とは何であるかという、その問いに対する答えが、
明らかに現れてくるであろう。

永遠の仏陀(旧版) P.176-182
永遠の仏陀(改訂新版) P.218-225

NEXT:永遠の仏陀:一千億年の歴史
1

前作品

位置づけ

次作品

Last Update 09/Apr/2021